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2023/03/24 10:28
益田市の歴史
益田市は、中世にこの地を治めていた益田氏に由来します。益田氏は平安時代後期から安土桃山時代までこの地を統治し、現代の益田を形成するさまざまな文化を作り上げました。
中世の益田では、高津川が益田川に合流しており、砂や小石が溜まることで、河口域が一部切り離され、湖を形成していました。この地形は、日本海の荒波や強風を避ける格好の条件であったため、高津川・益田川河口域は港町として賑わいました。益田氏は、その恵まれた立地条件と豊富な地域資源を活かして日本海に漕ぎ出し、積極的に国内外との交易に取り組んでいったのです。
益田氏による繁栄のもと、益田には、元々の地域の文化に加え、京都や山口、東アジアの影響を受けた文化が発展しました。益田氏は、寺社を手厚く保護しました。創建した時宗・萬福寺の本堂や、再建した地域の氏神・染羽天石勝神社の本殿は、当時の寺院・神社建築を代表するような美しい形をしています。室町時代には、当時山口で大内氏の庇護を受けていた雪舟が益田に招かれました。雪舟は萬福寺と崇観寺(後の医光寺)に庭園を築き、益田氏15代当主の肖像画、益田兼堯像を描きました。これらはいずれも雪舟の代表作とされ、二つの庭園は四季折々に異なる美しさを見せます。
しかし、その栄華も終わりを迎えることとなります。1600年、関ヶ原の戦いで毛利ら西軍についていた益田氏は、東軍に敗れると、益田を追われ長門須佐に移ることになったのです。
益田市に行けば、中世日本を体感できると言われています。中世の歴史的建造物が今でも多く残されているから、だけではありません。Y字形の山の尾根に築かれた山城跡。直線と曲線が入り交じった街路など。二回しか曲がっていないのに、もとの場所に戻ることもあるようです。それは、益田氏が益田を去った後、江戸時代に城下町として再開発されなかったためです。それにより、中世に、地形や、古代以来の神社や道路などを大きく改変することなく築かれた町並みが、現代にまで残っているのです。
益田氏と山口
益田は地理的に山口と接しているため、古くから益田氏は山口と交流を持っていました。それが顕著になるのは、1350年に起こった観応の擾乱の時です。この戦いは、当時の将軍、足利尊氏派閥と、その弟直義派閥による権力争いです。益田氏は大内弘世とともに直義方に付きました。しかし、直義方が劣勢になると尊氏方に寝返りました。以降は大内氏の傘下として石見国人筆頭の地位を築き上げました。
1467年に起こった応仁の乱では、益田兼堯・貞兼父子は大内政弘に従い石見で大内教幸や吉見信頼の反乱を鎮圧して石見の勢力を伸ばし、1508年に益田宗兼・尹兼父子は大内義興に従軍して上洛するまでになりました。
1551年、陶晴賢が大内義隆に謀反を起こすと、益田藤兼は晴賢と姻戚関係にあったため、それに協力。共に義隆を自害へと追い込みました。しかし、1555年の厳島の戦いで晴賢が毛利元就に討ち取られると、藤兼も翌1556年に元就の次男・吉川元春に益田領へ攻め込まれ、敗北。翌1557年に和睦が成立し、以降は毛利氏に従属することとなりました。和睦の際は、朝鮮半島の虎皮をはじめとする莫大な贈り物をし、蝦夷地(北海道)の昆布や数の子、地元の特産品である清流・高津川の鮎やうるかなどを材料にした豪華な料理を振る舞いました。
これは、益田氏の経済力を示すとともに、日本海交易への積極性を印象づける狙いがあったようです。その結果、益田氏は元就に一目置かれる存在となり、藤兼の子は元就から一字賜り元祥と名乗りました。
関ヶ原の戦い敗戦後、益田を離れ、長門須佐に移ると、20代当主となった益田元祥は引き続き毛利氏に仕え、土地を失った事による財政危機を救い、長州藩の基礎を固めました。その功績から益田氏の子孫は永代家老として、江戸時代を通して長州藩を支えることとなりました。幕末には、禁門の変において益田親施が長州軍の指揮を執りますが、敗北。長州に帰国するも、同年に行なわれた第一次長州征伐で、幕府軍より責任を問われ、自刃に追い込まれました。
明治維新後、益田氏は、「男爵」に任ぜられ、華族に名を連ねることとなりました。