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2023/03/24 10:12

気品と情緒あふれる町、津和野。島根県南西、小さな盆地に囲まれた町並みは、「山陰の小京都」として愛されています。

さまざまな歴史が連なるこの町は、一体どのようにして築かれていったのでしょうか。

津和野の発祥は、鎌倉時代まで遡ります。1282年、2度に亘る元(モンゴル帝国)の襲来を乗り切ったその翌年のことです。鎌倉幕府は、3度目の襲来に備え、能登国(現:石川県北部)から吉見頼行を津和野に派遣しました。結局、3度目の襲来はありませんでしたが、頼行はその地に、吉見14代に亘る居城となる津和野城を築き上げました。


 そんな吉見氏が失脚するのは、1600年のことです。毛利氏に仕えていた吉見氏は、関ヶ原の戦いで西軍が敗れると、領地を失い、萩へと追いやられてしまったのです。

 吉見氏に変わり、津和野城に入城したのは、東軍に所属していた坂崎直盛でした。

直盛は、わずか16年という在位期間にさまざまなことを行いました。まず、津和野城を堅固な近世城廓に大改修しました。そして城下町の整備、新田開発、和紙の原料である楮の栽培、灌漑用水路や側溝の建設にも着手しました。今では、町のシンボルの一つにもなっている鯉も、大量の側溝を作ったことによる蚊の大量発生を防ぐために、この時、養殖が開始されました。

 現在の津和野の礎を作り上げた坂崎直盛でしたが、坂崎家はわずか一代で終わりを迎えることとなります。その原因となったのは「千姫事件」です。


1615年、坂崎直盛は、大坂夏の陣で大阪城が落城する際に、徳川家康の孫であり、豊臣秀頼の妻である千姫を救出することに成功します。そのことを大変喜んだ家康は、千姫を直盛に嫁がせる約束をしますが、千姫はそれを拒絶し、桑名藩(現:三重県桑名市)の本田忠刻に嫁ぐことを決めてしまいます。それに怒った直盛は、桑名に向かう途中の千姫を誘拐する計画を立てます。しかし、その計画は事前に露見してしまい、幕府から謀反の罪に問われてしまいます。その後、事件の処理にあたった幕府の剣術指南役の柳生宗矩の説得により、直盛は自害の道を選ぶこととなったのです。

坂崎直盛の次に入城したのは、亀井政矩です。亀井氏の統治は11代に亘る250年間続き、その間に現在の津和野を形作るさまざまなことを成し遂げました。

初代政矩は、山の麓に居館を構えて津和野藩邸とし、山間を流れる津和野川岸の平地に、本格的な城下町を整備しました。7代矩貞は城の鎮護と藩の安泰を祈願して太皷谷稲成神社を建てました。ここは、信仰者により奉納された1000本の鳥居が並ぶ神社で、島根県内では出雲大社に次ぐ参拝者数を誇ります。


 8代矩賢は養老館という藩校を創設し、11代茲監がその規模を拡大しました。その人材育成重視の施策が功を奏し、津和野藩からは多くの学者が生まれました。日本最初の西洋哲学者西周や、陸軍医でありながら「舞姫」などの著書を残した森鴎外もその一人です。

 明治に入ると、1871年の廃藩置県により、浜田県(のちに島根県)に属し、1879年には現在の町役場に郡役所が設置され、郡の行改、経済、文化 の中心として発展しました。そして1889年の市町村制施行により津和野町が発足、1955年に津和野町、小川村、畑迫村、木部村の近隣四町村が合併、さらに 2005年、日原町と合併し、現在の津和野町が誕生しました。